昭和49年9月18日 月次祭 ②④⑩


 信心は大きな信心がよい。迷い信心ではいかんと、大きな信心をさせて頂く為にはまず私共が大きな心にならなければ大きな信心にと言う事すら実は分からないと思う。心は芥子粒のようであって、大きな事ばっかり願うておると言う事は大きな信心ではありません。大きな信心とは大きな人が大きなことを願うことがおかげ。
 この頃月次祭に、大黒様がね、打出の小槌をこうやって振っておられるのをこういうもう小判じゃない、こんな大きな大判というのがありましょう。十両ですかね、あれは。あれをもう大きゅう大判をどんどん打ち出しておられるところを頂いた。そして、あのお祭りから下がらせて頂いたら、どうでも一日まで一億円どうでもお繰り合わせをいただかなんというお届けがあった。はあ、おかげを頂くなあと思うた。今晩お届けがありました。御礼お届けが。お繰り合わせを頂いた。
 ね。だからね、そういう例えば大黒様が打ち出してくださるその、大きなおかげを受けると言う事だけが大きなおかげであっても大きな信心ではありません。
 問題は大きな心になること。そして大きな祈りをもたせて頂くと言う事。ですからまずは大きな心にならなければなりません。皆さんは大きな大判ばっかりを頂かせてもらいたいと思うて。ね。それはね、もう限りがないです。おかげは。いうならばお金は、使えば無くなりますし、ですから使うても使うても減らぬ一億円というか、使うても使うても減らぬ金百両というような限りのないおかげにつながるものを頂かなければならない。
●②今日お風呂に入らせて頂いて、まあ色々と本当にあの最近は合楽のお広前では日々奇跡が続出しておる。というのは合楽示現活動によるあらたな方たちが次々とお参りをしてみえる。もう医者も見離した。どうにも出来ない人間の力ではといったようなお取次ぎが持ち込まれてくる。まあ思うと難儀な問題が一杯持ち込まれてくる。少しやはり私が疲れ気味であっただろうか、そういう難儀な事を風呂に入らせて頂きながら、本当に難儀というものがね、ちょっとこう、なんかですね、心に重荷を感じたような思いでお風呂に浸らせて頂いておったら、芙蓉の花を頂いた。お風呂の中で。今咲いておるですね。芙蓉の花というのが。芙蓉というのはあれは富士山の頂上にね、頂きに白く雪が積もっておるところの芙蓉というのだそうです。どうでしょう。富士山にあの白い雪がなくても積もっておるからこそ富士山は富士山としてのいうなら風情もあれは値打ちもあるわけです。ね。
 頭を雲の上に出しておる。それこそもう雲なんかは突き抜けておる。しかも頂きには真っ白い雪を頂いておる。だからこそ、富士山としての値打ちがあるのであり、また風情があるのである。私はそれを頂いたとたんに私の心の中にかかっておった、難儀というか心の重荷が一遍にこう取れたような気がした。
 本当に心配事やら難儀やらが全然ない世界ということばかりを皆が願っておるけれども、そうではありません。それはもう退屈なことであろうと思います。やはりいつも何かがそこに重みを少しは感じたり、または難儀をそこに感じたり、けれども、そこに神様を信じる心というのだけはいよいよ冴えていく。いよいよ確信をもっての難儀でありその問題であるということにです、私はまあいうなら富士山といえば日本一の山と言われるが、ね、日本一を目指させて頂くほどしの私は信心。これを合楽に御神縁を頂いておる人たち全部がそういう願いをもって頂きたい、もうそれなりのもの、これだけはもうあなたの右にでるものはいないというような。●②
 昨日、久留米の教会で今、全国の信徒会長をなさっておられる大阪の扇町教会の信徒総代さんでしょうか信徒会長さんでしょうか、がお話にみえられた、こっからも沢山お話にを頂きにまいりました。一人一人の頂きところは違うに致しましても、とにかく素晴らしいお話であった、素晴らしいお話であったと言うことであります。それをお話を頂いておりますと親先生がいつも説かれるいつも言ってあることを実際にやってのけられた。しかも親子二代でそこのところを頂き抜かれたところに現在、その方のおかげがあるのだという事でございます。何十年間の間にはもう本当に様々ないうならばおかげだけに走っておる時代があった。
●④私は昨日の、本部からあの、教報を送ってきた。その教報の中に、ある教学をなさる偉い先生が、金光大神様の事を色々とりわけ御理解第三節のことについて教学的に説明をしておられるお話を頂いておりましたら、教祖の信心を四つに分けてお話になられた。ね。その四つの話がです、ちょうど私が辿らせて頂いた、同じような事が言えるなあと言う事を感じさせてもらいました。先の二つは低迷時代ですから、教祖様とてもただご信心が好きであったけれども、やはりおかげを頂かなければならない。ご利益を受けたいばっかりの一心が信心であったということでしたから。始めから生神様と言う事ではなかった。 ね。段々本当のところへ入られて、この自然、最後のところに自然布教と積極布教という事が記されてある。その始めのところから思うと私の信心にぴったりするようなものを感じたのですけれども。私共が椛目合楽を通しておかげを頂いてきたというのは、あれは自然布教であっただろうと思います。もう実にあるがままに、なるがままにという、そこから、ご神意を体して、またはご神意を分からせて頂いて、二十五年間おかげを頂いてきたということです。実に自然そのままの、布教であったということであります。ね。
 その間に私共が体得させて頂いたのは、成り行きを尊ばせて頂くという事。一人一人に起きて来る様々なその問題、その問題は問題ではなくて、神の心であると分からせて頂いた。そこから、それは神様の御働きなのだから、私にかけられる神様の願いなのだからそれは御の字をつけて頂くことだと言う風に最近では言われるようになった。●④
 そこのところをです、そういう理屈を抜きにして、もうただ、一切を神様、いや親先生が言われる通りのことをなさってある場合は、損にもなった、ある場合には夜逃げもしなければならないようなこともあったけれどもそこを頂き辛抱しぬかせて頂いておるうちに現在のそれこそ何十億という財産を築かれた。そしてその、中身がまた素晴らしい。
 大きな会社を幾つも持っておられるのですけれども、まあ自分の会社は共産党的なところがあるというふうに話されたそうですね。いわゆるガラス張りだと言うのです。いうならば合楽の会計と同じ事です。経理と同じ。もうガラス張り。毎日毎日もう私よりも総代さんの方が詳しい。
 ね。というような生き方。ね。同時に会社のことですから、従業員に対するところの給料なんかでもです、とにかく、会社が大きくなれば給料も良くなるというようなシステムになっておるです。素晴らしいです。私だけが儲けようとは思わん。ね。この会社が大きくなる時は皆さんも一緒に大きくなるんだというのですから、やっぱり従業員の方達も一生懸命になられるわけです。美しいです。やり方が。ね。ある時にその、脱税のお説教を頂かれた。金光様の先生どんしよって脱税どんしよってからというお話を終始聞かれた時にです、帰って早速そのいわゆるガラス張り的なものになさったというお話です。私はおかげを頂く方は違います。だからどういう風に合楽で二十五年間成り行きを尊ばせて頂く、何故尊ばねばならないか。それは神様の御働きであるから、神様が私個人に求めなさるその事柄をです、恩の字をつけて頂かせて頂く事に徹すると言う事がそのまま真であり真心である。天地の働きそのままが真なら、ね、私共もそれを受けて行じていくというその心がそのまま真である。それを先ほど、末永先生が申しておりましたように、今朝のご理解が「信心の道を迷わず失わず末の末まで教え伝えよ」という御神訓の最後の一番最後のところの御教えについて今日頂いた。
 真心、真心というけれども、お道の信心は真心真心と言う事を申しますけれどもその真心の一番素晴らしい大きな真心というのは、天地そのものの働きが真である。その真を私ともが真心で受けるこそ真心である。ね。だから真のおかげが現れる筈である。いうなれば、その方は真心の信心。しかも大きな真を現しての信心。しかも親子二代にわたっての信心であったというところにです、今日のおかげの隆盛を極めるおかげを受けられた。ね。あの話を頂き乍合楽一家をおいでおられた一人一人がそれを実感しておられる。
 合楽ではあの事を何時も親先生がそれこそ微に入り細に渡って、(?)のようにして二十五年間いわば説いてこられた。それを果たしてお互いがものにしておるかしていないか。したりしなかったり。これではいけない。信心はどこまでも徹することなのだ。
●⑩今日は、秋山さんところの娘さん、悌子さんがお参りして、もうとにかく昨日からずっと頭ががんがんすること痛い。お父さんの具合が悪いから毎日日参しておる。ところがあの、今日ほど私は有り難いと思うた事は無かったというのは、ご理解を頂き頂き、頂き終わった時には頭がすっかりおかげを頂いておったというのである。いうならばお徳が耳から入ってきたような感じだねというて話た事でした。
昨日一昨日でした。久留米の三橋先生が妹さんが福岡におられます。信心はありませんけれども、おかげの泉を毎月三冊送られる。ですからまあ、困った時難儀な時はこれを読んでみなさいというてそれを皆にそれを貸して輪読される。中に一人もう目が見えなくなってもう、あの、目くらになられる寸前という方がです、あのおかげの泉をこんなにして読まれたことでしょうけれども、ね、段々視力が出てきたというお届けがあった。はあそんなおかげを頂いてはよお礼に出らじゃこて、大祭なんか連れて参ろうというのんきな話である。
 信心がないのですからね。それでも神様はやっぱりおかげを下さるです。これなんかは目からお徳が入ってくるという感じですね。先日からは佐田の叔母ちゃんが四、五日体が大変悪かった。あんまり具合が悪いから今日はおかげの泉ば抱いて寝ろうちいうて抱いてねらっしゃった。ご本を。明くる日はおかげですっきりおかげを頂いた。これはどういう事でしょうかね。
 同時にもう一つあった。それはね、もう小さいく二つくらいで亡くなられたお子さん、今の恭造さんの妹さん。その方がいつも帰幽日には帰幽祭をこちらでなさいます。いわゆるお立ち日です。ところが一月ころっと忘れておったことに気付いた。それで若奥さんにそのことを話されたら、ならどうでも早くお祭をさせて頂こうと。そして、お供え物をデパートかどっか買いにおい出られたら、もうそれこそ御霊様が自分に乗移られておるのではなかろうかというようにあれが欲しいもうそれこそ、お子さんですからもう、その心の中にこう命じられるままに買わせて頂いた。もう感動のし続けであった。そのお祭を奉仕終わらせて頂くと同時におばあちゃんが元気になられた。おかげの泉を抱いて寝られたから元気になったのか、御霊様のお祭にお心に答えられたからおかげになったのか、それはまあ両方でしょうけれどもね、そういう例えば不思議な働きを受けての御互い日々であります。●⑩
 ですからそういうおかげの中にあってです、私共が信心の成長を願わせて頂かなければならないという事が、ね、信心がいよいよ大きな信心になっていかなければいけないと言う事。大きな信心に成らせてもらう。行き詰まりのない信心をさせてもらわなければならない。為には一つ私共が大きくならせてもらわなければならないという事。自分は小さくて、大きな事を願っておると言うのは大きな信心ではない。
●②皆さんも御承知のように私が奉仕の服は梅の花の紋がついております。大体大坪家の紋はこの丸、梅鉢です。ね。これは二十二・三年も前でしたでしょうか。この枠を取ることを頂いた。ね。そしてご理解にですね、この枠があったのでは大きくなれないのだ。お互いの思いの中にね、自分のしておることが間違いがない。自分の生き方で生きさえすれば間違いないというておるけれども、そういう思い方をいつでもより本当なことが感じられたならば、すぐより本当な事へ切り替えていけれるおかげを頂かなければいけんです。ね。一つのこう、まあ、土塀なら土塀のなかにあるならばその土塀のなかにあるところまでしか、大きくなれません。ね。だからそれを乗り越えるというよりもそれをとりのぞかれなければいけません。でなかったら大きくなれない。ね。●②
 おかげを頂いて自分の大きくならせて頂く事の為に一遍にこう水ぶくれのように膨れるのはほんなものじゃない。やはり一年一年というか成長していくところのおかげを頂く為にです、お互い二十五年の信心をさせて頂いてです、どのくらいの信心の成長をみたか、どの位本当の事が出来るようになったか、どの位、信心の道を迷わず失わずというように、迷わず失わず末の末までも教え伝えれる確信があるかどうか。ね。その信心の道とは真心の道と書いてある。その真心の道というのは、いうならば、天地が私共に真をもって示して下さるその事柄を真をもってそれを合掌していうなら恩の字をつけて受けていくというその心こそが、本当の意味においての真心だ。こういう信心が出来ていく限り信心は成長していく。
●②先日私はお夢を頂いた。ちょうど私が一、二歳の子供であった。それが桃太郎さんの扮装をしておる。私は思うた。私の信心があの位のところだなとこう思わせて頂いた。そしたら先が楽しみ。まだ。ね。まだ、いわゆる青年期も来ておらん。少年期なんだ。私共がやっぱ青年するか壮年期になった頃にはどの位素晴らしいことになってくるだろうと思う。その小さい、桃太郎さんがね、風呂敷包みをもっておる。大きな。お菓子箱です。それが私には何かが分かる。風呂敷包みであるけれども。それはあの、岡山であの、金光で売っております、吉備団子という岡山の名物です。岡山の吉備団子というお菓子があります。それを下げておるところを頂くのです。
 皆さんが例えば吉備団子ばかりを願うとか求めるという、ね、あの吉備団子は皆さんも御承知のようにね、これから鬼征伐に行くのだ。ついてくるならあげましょうでしょう。ね。けれども、今の合楽の場合はですついて例えば来なくても一回二回位は吉備団子がもらえるような時代。それは、吉備団子というのは大体おじいさんとおばあさんが手作りの吉備団子でなからなければいけんのだけれども、もうそれだけでは現在の合楽は足らないという感じ。だからわざわざ岡山から買うてきてからでもあげなければならないと言う事なんだ。
 そこで桃太郎さんの言う事を聞かせてもらう者の上にその吉備団子が配られると言う事なのですから結局親先生の言う事を聞かなければその吉備団子は実はもらわれないのだ。ね。しかもそこに神様の切実心というものを感じるのですけれども、もうそれこそ買うてきてからでも渡そうとなさっておられる姿勢を私共は感じなければならない。そこのところを合楽示現活動ということに表現されておるのです。ね。いわゆる、鬼征伐という事はです平和ないうならば、世界を作る、世界の真の平和を願う。世界の総氏子の身の上安全を願うそういう大きな願いに立っての事なのです。合楽示現活動というのは。●②
 ね。そういう願いに私共が参画させてもらうということはです、私共の信心が成長して大きくなって、道理が分からせて頂かなければです、先ほど末永先生申しておりましたように、この、示現活動に参画すると言う事は仏様やら神様がそれこそ不思議な働きを示し現して下さる事そういう事に参画させてもらう。預からせて頂くということなんだ。
 ところが心が成長していませんとですもう度々親先生の口を開けば合楽示現活動、合楽示現活動というけれどもです、ね、それを一向にただ聞いておるというだけで、実際に行動に移そうという意欲すらも出てこないというのは心がこまい心が成長が遂げていないという事をまず悟らなければいけん。今の神様の一番の願いはそのことなんだ。そのことがいうならば鬼征伐なんだ。ね。いうなら鬼が島に行こうというのである。ね。そこには桃太郎さんの言う事を聞かせてもろうて初めてその吉備団子が頂けれるものなんだ。ね。
 昨日、上野先生がそれこそ真剣な面持ちで大体北野の方ですから、最近、北野の町に町政の上に色んな難儀な問題を聞くにつれても、どうでも町長さんが金光様の信心を頂いて下さる、合楽に参って下さると、少しはましな北野町に町政がひけるだろう。為にはどうでも一つ現在の合楽示現活動をしなければならないというそれこそ沢山の便箋にするなら10枚くらいあるでしょう。あの、原稿用紙に一杯書いて読んでくれた。もう、それこそ熱烈な言葉を綴っておられました。だから私はそれには文句は何もありません。出されるようにそのままおかげの泉を沿えて出された事でした。
 今日は、鳥栖の上野さんが参ってみえられた。先生鳥栖の市長さんの奥さんと私は大変懇意にしておりますから、明日その示現活動に行きますからどうぞ宜しくお願いしますと。昨日は、福岡の池田さんが電車の中で一生懸命にお話をなさった方がです、ね、大川の市長さんの奥さんとの友達の方であった。おばあちゃん。実もそれも懇意にしておられるからどうでも一つ(?)大川の市長さんにもさせて頂こうといわれたというのです。ね、 この近所界隈のです市長さんといい町長さんが本当に合楽示現活動に参画、例えば私はその思うことはね、そういう働きが参ってくる、参ってこないは別にしてです、そういう働きが起きておるということです。ですから、合楽で本気で信心の稽古をしておる人たちが、本当をいうたらじっとしておられないものが、躍動的なものが起きてくるのが本当ではないかと思います。ね。けれども、まだ私はお互いの信心がそこまで成長していない。 いよいよ二十三日が秋の御霊様のいわば御大祭でございます。いわゆる御霊祭がありますが、ね、最近御霊様のお届けが頻々としてあります。頻繁です。というのはです御霊様が非常におかげを受けておられると言う事です。合楽のもうはっきりと合楽の親先生のおかげで、こんなおかげを頂いておるといったようなお夢を頂かれておる人のお届けがいくらもありました。いうならば先日から私が皆さんも合楽に御神縁を頂いておる方たちにです、お互いがおかげを受けておるという事実を確認、いうなら私こそ私の家こそ極楽のおかげを受けておるというまず確認をしなければいけないと私は申しておりますように、御霊様の世界のおいてもまず私がね、いうならば極楽宣言をさせて頂いた。あなたがたは合楽に御神縁を頂かれて、金光大神のお取次ぎを頂いておかげを頂いていくのであるから、(?)くらいなものに不自由するはずはありませんよと実はおかげを受けてますよという宣言がなされた。
 改めてそれでもまだ、自分はね、苦しみの中にあるように思うておる。なら、ご信心を頂いておってもです、まだおかげの頂き足らんような思いかたをしておる人はそういう事なのです。ね。だからおかげをおかげと確認して、そして今朝から頂きますようにです、信心の道を迷わず失わず、しかもどう言う事があってもそれを貫いていってこそ、昨日皆さんが頂かれた、(?)お話を聞かれたそのような、そういうおかげの頂けれる道なんだ。
 ね。それにはやはり、信心辛抱だけではなくてです、ね、信心の道である、真心の道である。その真心の道と言う事をいうならば天地の道というても良いでしょう。ね。天地が私共に求めなさるいうならば修行をそれを有り難く受けていくという事。その受けていくということにやはりへとへとする事もありゃ、苦しい時もあるけれども、それは一つの信心の風情である。日本一をお互いが目指させて頂くような大きな願いを持っておる。そんならそれはもう、富士山の頂に掛かっておる雪のようなものである。むしろそれを風情にさせて頂くくらいなゆとりのおかげを頂くためにまずは、私共の心事態が大きくならなければならない。そして大きな信心を目指さなければならない。そして本気に成り行きを大事に全てのことを御事柄として受けていけれる信心修行を本気でさせていただかなければならない。そこから生まれてくる信心の喜び、そこから生まれてくる信心のおかげ。そのおかげをひっさげて、そこから示現活動に参画させて頂かなければならなんということになるのじゃないでしょうか。
 昨日、壱岐の末永先生のところから電話がかかってきた。この頃おかげの泉で大変おかげを頂く人が出来てきたがお参りも、合楽に奇跡が続出すると言われるようになって私のお広前でも奇跡が起きつつあります。もうあらゆる仏様神様、キリスト教から、もうそれこそ、仏教ももうそれこそあらゆる宗教によって助かろうとしたけれども助かられなかったという病人さんがあちらのお広前に御引きよせを頂いた時点から助かっておるという話を電話で末永先生が受け取っております。小児麻痺の人がお参りをさせて頂いて、不思議なおかげが現れだしたとこう言われております。
 この頃日奈久の富永先生もです、やっぱり合楽と同時にです、お広前に奇跡が現れておると言う。そういう例えば奇跡的なその、おかげを下されなければならない止むに止まれない神様の御心をです、私共は知らなければいけんです。ただ、これは素晴らしいか、ただただ、あれよあれよというておるだけじゃいかん。どうして今神様がそういう咳き込んだようなおかげを下されてあるのだろうか。
 ね。信じなければおかげを受けられんとかおかげの受け物を作らなければならんとかというような事ではなくてです、ますます神を信じて、日常生活が出来れる、そして示現活動に参画してもらえれる氏子を一人でも多く作ろうとなさっておられるその神様の切実心をです、私共は悟らせてもらう時にです、私たちはじっとしておられないのじゃないでしょうか。私共は神様の心が分からない。ね。ただ、おかげを頂くという事だけに、ね、まあいうならば魅力を感じるというだけの信心ではなくて、その一つ心をね分からせてもらう。ね。
 この前の月次祭にもお届けがあったんです、今日もまたお届けがありましたが、久留米の井上さんという西久留米の住友生命の支店長をなさっておられる方です。大黒様の奉祭をさせて頂いた。
 沢山の社員の方たちが外交に出られる方達がです、もうとにかく、普通成績の良い方達がその大黒様を鼻の先で笑うような人達は親先生、今日に至るまでまだ、ゼロでございますちいう。ところがまだ今までは全然成績の上がらな買った人がです、必ず帰りには大黒様を拝んで帰られる。帰りにはなしを買うてくる。帰りにはぶどうを買うてくるというような方たちは不思議なくらいにおかげはたっておりますち。今月もいうならば、二十日間大体は過ぎたのにです、いうならば信じる心、拝む心の無い人には一つももうゼロであるというて今日、今晩もお届けがありました。
 ね。だからそういうような例えば働きをだから井上さんそれを貴女が見てです、なるほど大黒様を拝むという事がそのように素晴らしい事だと言う事を貴女が分かればいいですね。そんなにはっきりしておるならばというた事でした。いうならば大黒様のお姿の中にです、親先生を感じ、教祖生神金光大神を拝ませて頂くのですから、おかげを頂くはずです。
 今日、この久保山さんという方が、大黒様と思うけれども、やっぱり、一万円も出さなければならん。そのことを私は毎日毎日朝参りをさせて頂いて、もう親先生ば拝みよるけんと思うて休ませて頂いた。そしたらもう親先生の口がこげん広かちいうごたる大きな口を開けてから、もうこれ以上は割れまいちいうごたるお姿をお夢の中に頂いておる。それが私のこの目に焼き付いておる。はあ、一生懸命親先生が笑いござりよる。これを拝んで行こうと思うておりますというて今朝からお届けがあった。そういう一つの大黒様ブームというか、そういう働きがあっておることもです、ただ、大黒様を祀れば金銭に不自由しなという例えば小さい見地に立つのではなくてです、なぜそういう働きが起きておるかという事を一つ皆さんが感じ取って頂いてです、ね、金光大神の御取次ぎを頂いてです、本当に五つの願いではないですけれども、体の丈夫も家庭の円満も子孫繁盛家繁盛も本当にいよいよ真実の御用が出来れるということも願わなければおられません。
 それは天地金の神様の悲願とも思われる悲願に応えたいから、お金も儲からせてください健康にもならせて下さいというのですよ。ですからここのところが分かってもです、私はおかげでないとそれが身につかない。それこそ根無し草のようなおかげになってしまうと思うのです。今の例えば奇跡も今の大黒様ブームもただ、一時流行のようにしてですね、消えていくようなことではあってはならない、その時にです、私共は神様の心の底を一つ分からせてもろうて、ね、その、心にいよいよ添わせて頂く信心を頂きたい。そして、一つ枠をとらなければいけない。塀をとらなければならない。大きくなろうと思うても大きくなれない。そして、限りなく大きく、私が今ようやくなら12歳ですからまあ、その位ですから、皆さんはまあ四つか五つかもしれませんから、仕方の無い事といえばそれまでかもしれませんけれども、ね、私がいつまでも25歳じゃない。15にもなれば20にもなる時代が必ずくるでしょう。皆さんもやはり共に一つ育ってもらわなければならないと言う事であります。
                                    どうぞ